リヒャルト・アスマン Richard Aßmann

研究者の足跡

テスラン・ド・ポールと同時期に成層圏の存在を発表した人物、リヒャルト・アスマンについて学んでいきたいと思います。

リヒャルト・アスマン Richard Aßmann

リヒャルト・アスマン
リヒャルト・アスマン
参考文献②より引用

1845ー1918

ドイツの医師であり気象学者です。高層大気研究と観測技術に大きく貢献しました。

テスラン・ド・ボール(1855ー1913)とともに、成層圏の共同発見者とされています(1902年の同じ時期に発見を発表)。

彼は成層圏発見以外にも、山頂の調査で雲滴の性質を明らかにしたり、乾湿計を発明したり、ゴム製の観測気球を開発したりと、様々な功績を残しています。

日本の高層気象台を開設した大石和三郎氏は、留学した際にアスマンから教えを受けており、日本の高層気象観測はアスマンが祖であるともいえます。

医学から気象学へ

革製品メーカーで町議会議員の長男として、ドイツのマグデブルグ市に生まれました。故郷の町で学校を卒業したアスマンは、1865年にブレスラウ大学で医学部に入学し、1869年に「血友病」の論文で医学の博士号を取得しました。1870年に医師免許を取得し、普仏戦争でプロセイン軍の外科医を務めました。戦後すぐにオーデル川沿いの小さな町ライエンヴァルデで医師として働きます。

アスマンは気象学に興味を持っており、医師として働きながら、暇なときに気象現象を観測し始め、戦争記念館の塔に小さな観測所を設置し、自記測定器で記録をとっていました。この期間中に、ハンブルクにあるドイツ海洋気象台を含むドイツ気象局を訪問し、そこで著明な気象学者ウラジール・コッペ(Wladimir Köppen)と出会い、生涯の仲となっています。

1879年に故郷のマグデブルグ市に戻り、市立病院の医療監督者になることを望みましたが、その希望は通りませんでした。そこで偶然、同級生で地元新聞の編集者であったアレキサンダー・フェーバーと出会います。フェーバーは自身の新聞の中で天気予報を掲載するために、測候所の設立を考えていました。1880年、アスマンは新聞社敷地内に建てられた塔の長となり、12月12日、最初の天気図を発行しました。ロンドンにおいて世界で初めて天気図が新聞に掲載された、わずか数日後のことでした。

こうしてアスマンは医師を止め、気象学の研究へと進んでいきます。

1881年にマグデブルクで農業気象学会を設立し、中部ドイツに250ヶ所以上の観測点を持つネットワークを開設しました。1884年には「Das Wetter(天気)」という一般向けの気象雑誌を刊行しました。この雑誌では、農家、庭師、林業家など、天気の影響を受ける仕事をしている人々が気象学に関心をもってもらうことを目的としていました。アスマンは、生涯にわたりこの編集長を務めます。

アスマンはまた、気象観測者の数を増やすことを望んでいました。

1904年に「Monatsschrift für praktische Witterungskunde(自由大気の物理学への貢献)」という科学雑誌を発売しています。こちらは「Das Wetter」とは対照的に、高層観測の研究に取り組んでいる科学者間の情報交換のためのものでした。

観測結果や研究結果を、研究者間だけでなく一般に対しても公開し活用する機会を与えてくれる姿勢、また同志を増やしたいとする思いが、生涯を通して編集長を務めた姿から表れていると思います。偶然同級生と出会ったことが、アスマンの気象学への思いを放出させるよい機会になったのでしょう。

雲の観測

1884年にアスマンはドイツ中部のハルツ山地の最高峰ブロッケン山(1141m)で雲物理の観測を行いました。顕微鏡を用いて、雲の粒子が液滴なのか?泡なのか?という疑問を明確に解決し、雲の粒子は液滴であることを支持しました。

ここで、「なぜ泡?」と思われるかもしれません。

当時、雲がなぜ空中に浮かんでいるのか、わかっていませんでした。

ハレー彗星の軌道計算などで知られる、イギリスの天文学者エドモンド・ハレーは1691年に発表した論文で、雲が落ちてこない理由について「水の原子が熱によって膨張して泡になることで、空気よりも軽くなるため」と説明しています。この考えは当時、多くの人に受け入れられました。

アスマンは顕微鏡による観察によって、この論争に終止符を打ちました。

乾湿計の開発

「乾湿計」とは、気温湿度を同時に測定できる計測器のことです。

1892年に換気や放射の影響を除くための通風装置を付けました。これは温度を測定する部分を日光から遮蔽する構造となっています。つまり風通し良く、直射日光の影響を受けない構造です。

高い高度まで飛ばす風船において、直射日光の影響は長年の課題となっていました。テスラン・ド・ボールも、夜に観測するなど工夫を凝らしていましたよね。

アスマンの計測器により、初めて信頼性のある気温と露点温度の観測が可能になりました。

この通風乾湿計の原理は、今日でも使用されています。

観測気球の開発

1892年、気象研究所でアスマンの担当部門は拡張されました。彼は「航空学推進のためのベルリンドイツ協会」に参加し、この協会が推進する、科学利用を目的とした観測気球の計画を引き継ぎました。

ドイツでの有人気球観測は、1893年3月1日、ドイツ皇帝の前で気球フンボルトに搭乗し高層気象観測を行なったのが最初です。その後6年間で、65回の観測を行っています。気球に乗せていた測定器は、水銀気圧計、毛髪湿度計、アスマンの通風乾湿計と放射線測定装置でした。この間多くの観測者が気球に乗り、44回目の浮遊中に、気球フェニックスが9155mという記録的な高さに達しました。

またアスマンは、有人気球だけでなく、無人気球の開発も行ないます。

アスマンによる高層観測への最も重要な貢献といえるものが、ここで生まれます。

それまで使用されていた気球は、ニスやワックスを塗った紙などが、下向きに口を開いた状態(いわゆる開口式、定積)の気球でした。紙製の気球の場合は伸びないため、高度が上昇するほど持ち上げ力を失います。そのため気球を飛ばしてから着陸に時間がかかり、また上昇速度も一定ではありません。風に流されてしまって、出発点(測定地点)からかなり遠くに飛んで行ってしまうことが珍しくありませんでした。

そこでアスマンは、1900年頃にゴム会社コンチネンタルと共同で、薄くて軽くてよく伸びるゴム製の気球を開発します。このゴムを使って閉鎖式の気球としました。弾性のあるゴム製気球であれば、高度が高くなるほど気圧が減少するため気球自体が膨張し、ほぼ一定の持ち上げ力、ほぼ一定の上昇速度、ほぼ一定の観測器の換気が可能になりました。ほぼ一定の上昇速度であれば、スタートからの時間で、観測高度をある程度推定することが可能になります。

また、短時間で上昇して破裂するため風に流される距離が小さく、観測地点からそれほど遠くない地点で測定器を回収できました。これら数多くの利点があったことから、高層気象観測はゴム製気球が世界各地で広く行われるようになり、それは今でも続いています。

ラジオゾンデを人の手で放球する地点の飛揚風景
気象庁HP

成層圏の発見

1894年までに、自記測定器を搭載した無人気球のいくつかは、現在成層圏と呼ばれている対流圏の上の層に到達していました。しかし誰もそのような層(温度が下がらない等温層)の存在を予測していなかったので、テスラン・ド・ボール同様、アスマンもまた、温度が下がらない層が存在する、その観測結果に関して非常に慎重でした。

1894年から1897年の間にアスマンによって行われた10回の観測のうち5回は、高度11.7〜21.8kmまで観測することができました。その温度計の測定値によると、約15kmの高さで温度低下が止まっていることが示されていました。この時点ではアスマンは、彼の測定器が放射によって悪影響を受けたのではないかと疑っていました。

1896年以降、同様の観測結果が、フランスの気象学者テスラン・ド・ボールによって明らかにされ、1902年に、ほぼ同時にその事実を発表しました。

高度と気温の関係(6回の測定結果)
アスマンの1902年発表論文を参考に図示

彼らは友人でもあり、長い間観測結果を交換し、それぞれ独立したものではありますがほぼ同時に結果を公表しました。テスラン・ド・ボールは4月28日にパリ科学アカデミーに、アスマンは5月1日にベルリン科学アカデミーに発表しています。

その後

1903年、アスマンはオランダ王立芸術科学アカデミーからバイバロットメダルを授与されました。この賞は、気象学の発展に多大な貢献をした科学者に10年に1回授与されます。

2005年10月16日、100周年記念式典で、アスマンの功績をたたえ、リンデンベルク高層気象台は、「リヒャルトアスマン気象台」という名称となりました。

日本の初代高層気象台長となった大石和三郎は、1912年からリンデンベルク高層気象台に留学してアスマンから教えを受けた後、日本の高層気象台を開設しています。日本の高層気象観測はアスマンが原点ともいえます。

あとがき

医師をしながらも気象に関心を持ち観測を行っていたこと。新聞社をしている同級生とたまたま出会ったことが気象学の道に進んだきっかけとなっていますが、アスマンだったらどんな些細なきっかけでも、結局は好きな気象学の道に進んでいたのではないかと思えます。

またその内容を、研究者の間だけでなく一般に広めようとする姿勢が素晴らしいと思います。始まりが新聞社であったことが大きく関連しているかもしれません。天気予報の始まりですね。気象学を利用することで生活がより発展したものになります。

明日の天気はわからない、天気に合わせて生活する「晴耕雨読」は好きな生き方です。が、時に本を読んでいられない雨が降ることを、田畑を耕していられない晴れがあることを、気象学は予測してくれようとしています。

気象学は一般に周知されることでその目的のひとつが達成されるものではないかと思います。

気象学に携わった当初からその姿勢を持っているアスマンは、「なんて人だ!」と思える人物です。

テスラン・ド・ボールは観測気球をより安価なものとして、その観測回数によって新事実にたどり着いた人物でした。一方アスマンは、より正確に測定できるよう、測定器であったり観測気球であったりに改良を加え、同じ結果にたどり着きました。同時期に同じ事に関心を持っている2人。

初対面は探り合いから始まるんでしょうか。それとも「聞いて聞いて!」「あ、それわかるわかる!」となるんでしょうか。

時代の流れとはいえ、場所もアプローチも少しずつ違った2人が出会った時にどんな会話をしていたのか、聞いてみたいものです。

成層圏の発見者としてアスマンを取り上げましたが、ここまで記載してきたとおり、その他にも多大な貢献をしています。またそれはそれぞれの項で言及していきたいと思います。

参考文献

① Assmann, R.:Über die Existenz eines wärmeren Luftstromes in der Höhe von 10 bis 15 km.(1902)

② Klaus P. Hoinka:The tropopause: discovery, definition and demarcation, Meteorol. Z.(1997)

③ 松野太郎:成層圏と大気波動の研究をめぐって(1982)

④ 堤之智:気象学と気象予報の発達史 第2刷,丸善出版(2019)

⑤ 堤之智:気象学と気象予報の発達史(web),リヒャルト・アスマン

⑥ ENCYCLOpedia.com:Assmann, Richard

*別項「注意書き」をご一読ください

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